2008-01-01から1年間の記事一覧

家定と篤姫

篤姫は将軍家定のもとに嫁いだものの、夫婦として過ごした時間は大変短いものでした。 たった1年半余り・・。 篤姫にはいったいどんな思い出が残ったのでしょうか? そんな二人の関係はどうだったのか、少し気になるところです。 以外にも、大奥では世継ぎ…

側室・お志賀の方

彼女は篤姫の夫、家定のたった一人の側室でした。 その出自は詳しく伝わっていませんが、御三の間勤めから家定のお手が付き、中臈となりました。 そしてよく耳にするのは、彼女がとても嫉妬深かったと言うことでしょうか。 家定が篤姫のもとに足を運ぶと、自…

本寿院

本寿院は第12代将軍徳川家慶の側室であり、第13代将軍徳川家定の母です。江戸城御所院番頭諏訪備前守に仕えた武士の娘で、大奥奉公に上がったおり御手付中臈となりました。 名はお美津の方です。おとなしい気質であったという彼女は、家慶の死後は本寿院…

将軍継嗣問題

篤姫が養父島津斉彬からよくよく言い聞かされたこと。 それは、次期将軍を一橋慶喜にすることでした。しかし、それは簡単なことではありませんでした。 ●大奥での水戸藩の評判はすこぶる悪かった。水戸の徳川斉昭の息子である慶喜は当然嫌われていた。 ●大奥…

徳川家定

篤姫の夫であり、13代将軍でもあった徳川家定とはどのような人物だったのでしょうか?1824年(文政7年)4月8日、12代将軍家慶の4男として生まれました。 母は側室のお美津、後の本寿院です。 たくさんいた兄弟は早くに亡くなり、結局家定が将軍職を継ぐ…

篤姫の使命

将軍家から薩摩藩に婚礼の話がきたのは1850年(嘉永3年)、篤姫が御台所となったのは1856年(安政3年)。6年の月日が流れていました。 この間に世の中はにわかに騒がしくなり、ある問題も浮上してきました。 それは、将軍継嗣問題です。 篤姫の夫…

御台所誕生!!

安政3年11月11日、晴れ。 前日から江戸城より迎えが来ていました。 たくさんのお客が薩摩藩邸に出向き、見物客も大勢いました。 いよいよ江戸城へ出発の日です。 花嫁道具は膨大な数となりました。 道具類はしっかりとチェックされ、薩摩藩邸の板庫に収…

篤姫の日々

いよいよ婚礼の日取りも決定しました。 11月11日 御広敷御入之儀 11月19日頃 結納 12月18日頃 婚礼 急ピッチで婚礼準備は進められていましたが、篤姫はどうしていたのでしょう?彼女は渋谷の薩摩藩邸で花嫁修業中でした。歌道、茶道、香道、絵などはもちろん…

婚礼準備

この婚礼が決まって大喜びの斉彬。 しかし、将軍に嫁ぐとなれば、その準備も大変です。 衣服は京の西陣で織らせ、かんざしは職人を邸宅に招いて作らせる・・ 斉彬は自ら指示を出し、惜しむ事なくお金を使っていました。優しい心遣いもありました。 薩摩らし…

幾島

ここで一人の女性を紹介しなければなりません。 幾島です。近衛家では篤姫の大奥入りの際の、お付きの女性達を選定していました。 そこで名前があがったのが幾島だったのです。彼女はもともと、篤姫の養父近衛忠煕の正室郁姫の侍女として京にのぼりました。 …

再び養女となる

婚礼が内定すると、篤姫は再び養女となる必要が出てきました。 将軍家に嫁ぐからには、それにふさわしい家柄でなければならないのです。 1856年(安政3年)7月7日。京の近衛家の養女となりました。 11代将軍・徳川家斉に嫁いだ島津家の姫・茂姫(広…

婚礼決定!!

1856年(安政3年)を迎えた島津斉彬は、篤姫の婚礼の話が少しずつ進み始めていることを感じていました。その予感は大当たり。 その年の2月28日。斉彬が登城すると、老中阿部正弘から一通の書状が手渡されました。 篤姫の婚礼が正式に内定したのです…

江戸の人々

芝の薩摩藩邸で生活を始めた篤姫。 彼女の周りにはどのような人々がいたのでしょうか?少し紹介してみましょう。 英姫(後に恒姫とする) 1805年〜1858年 篤姫の養母。島津斉彬の正室。 父は一橋家当主徳川斉敦、母は於弥与。 徳川斉敦は11代将軍徳川家斉…

安政の大地震 

この頃の幕府は、ペリー来航や京都御所炎上などの事件が続き、将軍の縁組にまで気を配っている余裕がありませんでした。 しかし、さすがの幕府も、やっと篤姫との縁組を考え始めました。こうした動きから斉彬は、1855年(安政2年)12月にでも決定され…

江戸にて

篤姫の江戸での新しい生活は、芝の薩摩藩邸から始まりました。 ここには篤姫の養母であり斉彬の正室英姫、斉彬の世子虎寿丸、斉興の娘勝姫、そして篤姫が芝藩邸に入ってすぐに生まれた、斉彬の娘寧姫がいました。ここで嫁ぐ日が来るのを待つ事になりますが、…

江戸へ

1853年(嘉永6年)8月22日、篤姫は江戸に向けて出発しました。この頃世の中は騒がしく、篤姫の旅路も決して安心できるものではありませんでした。 斉彬は、東海道よりは木曽路のほうが安全だろうと考え、当初は木曽路を通る予定でした。が、直前に東…

もしもの時

徳川家との縁組の話は、ゆっくりと少しずつ進み、斉彬としては、ほぼ大丈夫ではないかと手応えを感じ始めていました。 しかし、ペリー来航や将軍の死により、幕府も世の中も混乱していました。篤姫の結婚は正式に決定したものではありません。どちらに転ぶか…

篤姫と斉彬

薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤姫。 斉彬にとっては叔父の島津忠剛の娘であり、本来ならば篤姫はいとこにあたります。斉彬は篤姫をいったいどのように見ていたのか、気になるところです。そして、それを斉彬に聞いた人物がいました。 松平慶永(のちの…

斉彬の養女となる

1852年(嘉永6年)3月1日、篤姫は島津斉彬の養女となりました。 3月10日には名を一子から「篤姫」「篤子」と改めました。 篤姫の誕生です。 篤姫は19歳になっていました。 その年の6月5日には鶴丸城に移り、いよいよ新しい生活がスタートしま…

斉彬の思案

御台所候補が篤姫に絞られてから、斉彬のもとにある情報が入ってきました。篤姫が家定の正室ではなく、側室にしようという話が幕府ででているというのです。斉彬は家臣達や父の斉興に相談しますが、家臣達は側室ならばと縁組に消極的になり、斉興も不満をあ…

御台所候補たち(2)

1850年(嘉永3年)秋に家定の後室探しを始めた時、島津斉彬はまだ薩摩藩主ではありませんでした。 しかし、それから間もなくの1851年(嘉永4年)2月2日、斉彬はようやく薩摩藩主に就任することができたのです。 1851年(嘉永4年)12月1…

御台所候補たち

嘉永3年秋、徳川家からこんな問い合わせがありました。 島津斉彬に年頃の娘はいないかと言うのです。 徳川家は次期将軍の御台所として、広大院の血筋を望んだのです。 しかし、この時斉彬には年頃の娘がいませんでした。 これは良い話だということで、斉彬…

茂姫の話  

「もし女子の場合は一橋家に縁付けさせよ」 重豪の側室が身ごもったのです。生まれてくる子を見る前に竹姫は亡くなり、これが遺言となりました。1773年(安永2年)6月17日、重豪に女の子が生まれました。名は於篤。 1776年(安永5年)7月19…

竹姫の話(3)

薩摩藩主島津継豊の正室となった竹姫。この結婚で徳川家と島津家の関係は強いものになりました。 側室の子益之助を養子とし、結婚4年目には実子菊姫を授かります。もう不幸な姫様などではありません。 1746年(延享2年)11月7日、薩摩では後に25…

竹姫の話(2)

将軍の養女竹姫と薩摩藩主・島津継豊の婚礼話が浮上し、薩摩藩は困り果てていました。 さて、断るのに良い言い訳はないものか・・そもそも断れるのか・・ここで、一人の女性が薩摩藩の背中をポンと押します。 天英院です。 彼女はこの婚礼話を受け入れるよう…

竹姫の話(1)

篤姫より以前に、島津家から将軍家に嫁いでいった広大院。 彼女が将軍の御台所となるにあたり、当然反対の声があがりました。しかし、これを退けたのが「浄岸院様の遺言」でした。そこまでの力を持つ浄岸院とは、いったいどんな女性だったのでしょう?時は5…

篤姫、御台所候補に!!

三代将軍家光の時から、将軍の御台所(正室)は公家の娘というのが慣例になっていました。 篤姫は公家どころか、外様大名の一門家の娘です。いったいなぜ、御台所候補に篤姫の名が浮上してきたのでしょう?はじめに、家光から家定までの御台所を見てみましょ…

篤姫の家族

篤姫の故郷薩摩藩には、一門家として「越前(重富)」「加治木」「垂水」「和泉(今和泉)」の4家がありました。篤姫はその中の今和泉家の長女として生まれました。 父=島津忠剛(薩摩藩26代藩主、斉宣の7男。鹿児島城下で生まれ、9歳から20歳ま で…

篤姫の年表

篤姫の生涯を、歴史的出来事と照らし合わせて見てみましょう。 1835年(天保6年) 一子誕生 12月19日 薩摩藩今和泉家の長女として誕生。一子と名づけられる 1839年(天保10年) 一子5歳 12月14日 実父島津忠剛島津今和泉家の当主となる …

篤姫の生涯

薩摩藩の分家の姫から第十三代将軍徳川家定の御台所となった天璋院篤姫。幕末の動乱の中、徳川家の女として誇り高く生き抜きました。簡単に彼女の生涯を紹介します。 天保6年(1835年)12月19日、薩摩藩の分家である今和泉島津家・島津忠剛の長女として誕生…