徳川家定

篤姫の夫であり、13代将軍でもあった徳川家定とはどのような人物だったのでしょうか?

1824年(文政7年)4月8日、12代将軍家慶の4男として生まれました。 
母は側室のお美津、後の本寿院です。
たくさんいた兄弟は早くに亡くなり、結局家定が将軍職を継ぐこととなりました。


しかし、この家定も幼少から病弱でした。
脳性麻痺だったとか、痘痕があったとか、言葉が不自由だったとか、首を振る癖があったとか、とにかく暗愚の将軍だったと言われています。


料理が趣味だったらしく、カステラなどのお菓子、煮豆や芋をふかしたりし、時には家臣達に振舞う事もあったそうです。
父である家慶の病床には、自ら作ったお粥を持っていきました。


家定は、篤姫との結婚の前に鷹司政煕の娘・任子一条忠良の娘・秀子と結婚し先立たれており、篤姫は3人目の正室でした。
しかし、いずれも子供ができることはありませんでした。
側室はお志賀ただ一人です。


将軍の後継者問題や、外国との関係で騒がしくなる世の中を家定はどのように思っていたのでしょうか?


自らの跡継ぎを紀州慶福に決定して間もなく、1858年(安政5年)7月6日に家定はこの世を去りました。


家定の評価は色々あります。

徳川実紀より「性質は温容なれど日常の挙措も尋常ではなく、癇も強かった」 
松平慶永 「凡庸の中でも最も下等」
朝比奈昌広 「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前や薩摩らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」