竹姫の話(2)

将軍の養女竹姫薩摩藩主・島津継豊の婚礼話が浮上し、薩摩藩は困り果てていました。
さて、断るのに良い言い訳はないものか・・そもそも断れるのか・・

ここで、一人の女性が薩摩藩の背中をポンと押します。
天英院です。
彼女はこの婚礼話を受け入れるよう、薩摩藩の説得を始めるのです。

近衛基煕の娘で、名を煕子と言いました。6代将軍徳川家宣の御台所だった人です。
そもそもなぜ彼女は竹姫の後押しをしたのでしょう?
天英院は自分の子を早くに亡くした事もあり、幼い頃から竹姫をかわいがっていました。そして何といっても、島津家と彼女は親戚の間柄だったのです。

継豊の父吉貴の妹亀姫満君は、天英院の甥近衛家久に嫁いでいました。
近衛家と島津家との関係は深く、斉彬の姉(養女)が近衛家に嫁いだり、将軍御台所となる広大院篤姫も、近衛家の養女として嫁いでいます。

天英院は島津家の「奥」から説得を試みます。
「ご器量にとりわけ優れているとは申せませんが、幼い頃から利発な姫で父上様にも親孝行な姫でございます」
彼女はなんとか島津家の首を縦に振らせようとしました。

その結果、継豊の父島津吉貴の心は決まり、継豊も承諾しました。
島津家側は竹姫に男子が生まれても、すでに側室に男子がいるため跡継ぎにはしないことなどいくつか条件を出しましたが、それも認められ、晴れて竹姫の輿入れは決まったのです。天英院もさぞ喜んだことでしょう。

結婚が決まると、竹姫の御守殿の建設です。江戸の芝の薩摩藩には広大な土地が下賜されました。
後に篤姫も入ることになります。
そして、山のように集められた輿入れ道具。
1729年(享保14年)12月11日、竹姫の婚儀は盛大に行われました。

竹姫は遠く薩摩に嫁ぐわけではありません。江戸城を出て芝の薩摩藩邸に入ることになるのです。
さあ、竹姫は薩摩藩に嫁ぎどのような人生を送るのでしょう?