将軍継嗣問題

篤姫が養父島津斉彬からよくよく言い聞かされたこと。
それは、次期将軍を一橋慶喜にすることでした。

しかし、それは簡単なことではありませんでした。


●大奥での水戸藩の評判はすこぶる悪かった。水戸の徳川斉昭の息子である慶喜は当然嫌われていた。
●大奥ではもう一人の候補紀州の慶福を推していた。
●家定の母本寿院は、家定が50歳になるまで後継者選びは不要と言っていた。


篤姫には大奥の中においては味方もいません。
紀州の慶福に固まっている大奥の中で篤姫は苦心したでしょう。


思い余った篤姫は、思い切って家定の母である本寿院に相談しました。
しかし、当然それを受け入れてくれるはずもなく、反対に怒られてしまったようです。


養父・島津斉彬安政4年12月25日に幕府に建白書を提出します。
その中で、斉彬は初めて将軍継嗣に慶喜を擁立することを公言しました。


薩摩藩の中でも、西郷隆盛は江戸薩摩藩邸の小の島、大奥の幾島を通じ大奥工作をはかりますが、なかなかうまく進みません。 
篤姫のもう一人の養父・近衛忠煕へも協力を求めています。


しかし、様々な苦労も紀伊派であった井伊直弼大老就任で、一橋派の情勢は一気に不利になります。
そして、次期将軍は紀州の慶福に決定するのです。



篤姫をはじめ、一橋派は敗北しました。