篤姫ゆかりの人物

家定と篤姫

篤姫は将軍家定のもとに嫁いだものの、夫婦として過ごした時間は大変短いものでした。 たった1年半余り・・。 篤姫にはいったいどんな思い出が残ったのでしょうか? そんな二人の関係はどうだったのか、少し気になるところです。 以外にも、大奥では世継ぎ…

側室・お志賀の方

彼女は篤姫の夫、家定のたった一人の側室でした。 その出自は詳しく伝わっていませんが、御三の間勤めから家定のお手が付き、中臈となりました。 そしてよく耳にするのは、彼女がとても嫉妬深かったと言うことでしょうか。 家定が篤姫のもとに足を運ぶと、自…

本寿院

本寿院は第12代将軍徳川家慶の側室であり、第13代将軍徳川家定の母です。江戸城御所院番頭諏訪備前守に仕えた武士の娘で、大奥奉公に上がったおり御手付中臈となりました。 名はお美津の方です。おとなしい気質であったという彼女は、家慶の死後は本寿院…

徳川家定

篤姫の夫であり、13代将軍でもあった徳川家定とはどのような人物だったのでしょうか?1824年(文政7年)4月8日、12代将軍家慶の4男として生まれました。 母は側室のお美津、後の本寿院です。 たくさんいた兄弟は早くに亡くなり、結局家定が将軍職を継ぐ…

幾島

ここで一人の女性を紹介しなければなりません。 幾島です。近衛家では篤姫の大奥入りの際の、お付きの女性達を選定していました。 そこで名前があがったのが幾島だったのです。彼女はもともと、篤姫の養父近衛忠煕の正室郁姫の侍女として京にのぼりました。 …

江戸の人々

芝の薩摩藩邸で生活を始めた篤姫。 彼女の周りにはどのような人々がいたのでしょうか?少し紹介してみましょう。 英姫(後に恒姫とする) 1805年〜1858年 篤姫の養母。島津斉彬の正室。 父は一橋家当主徳川斉敦、母は於弥与。 徳川斉敦は11代将軍徳川家斉…

篤姫と斉彬

薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤姫。 斉彬にとっては叔父の島津忠剛の娘であり、本来ならば篤姫はいとこにあたります。斉彬は篤姫をいったいどのように見ていたのか、気になるところです。そして、それを斉彬に聞いた人物がいました。 松平慶永(のちの…

茂姫の話  

「もし女子の場合は一橋家に縁付けさせよ」 重豪の側室が身ごもったのです。生まれてくる子を見る前に竹姫は亡くなり、これが遺言となりました。1773年(安永2年)6月17日、重豪に女の子が生まれました。名は於篤。 1776年(安永5年)7月19…

竹姫の話(3)

薩摩藩主島津継豊の正室となった竹姫。この結婚で徳川家と島津家の関係は強いものになりました。 側室の子益之助を養子とし、結婚4年目には実子菊姫を授かります。もう不幸な姫様などではありません。 1746年(延享2年)11月7日、薩摩では後に25…

竹姫の話(2)

将軍の養女竹姫と薩摩藩主・島津継豊の婚礼話が浮上し、薩摩藩は困り果てていました。 さて、断るのに良い言い訳はないものか・・そもそも断れるのか・・ここで、一人の女性が薩摩藩の背中をポンと押します。 天英院です。 彼女はこの婚礼話を受け入れるよう…

竹姫の話(1)

篤姫より以前に、島津家から将軍家に嫁いでいった広大院。 彼女が将軍の御台所となるにあたり、当然反対の声があがりました。しかし、これを退けたのが「浄岸院様の遺言」でした。そこまでの力を持つ浄岸院とは、いったいどんな女性だったのでしょう?時は5…