御台所候補たち(2)

1850年(嘉永3年)秋に家定の後室探しを始めた時、島津斉彬はまだ薩摩藩主ではありませんでした。
しかし、それから間もなくの1851年(嘉永4年)2月2日、斉彬はようやく薩摩藩主に就任することができたのです。


1851年(嘉永4年)12月15日、この日薩摩の鶴丸城大奥では、斉彬の家督相続の祝いの行事が催されました。ここには一門家の当主をはじめその家族らが集まりました。
篤姫はもちろん、島津久光の娘於哲南部信順の娘於朝の3人の御台所候補も集まりました。しかし、於朝はすでに垂水島津家と婚姻を結んでおり、候補からは外れていました。
この時篤姫は14歳、於哲は13歳です。


この日は一族の者達で能を鑑賞、食事も出されたそうです。


斉彬と対面後の翌年から、御台所候補は篤姫に絞られていくことになるのですが、斉彬のいない江戸ではもう一人の候補があがっていました。
美濃大垣藩主の戸田氏正の娘です。彼女は広大院の姪(母が広大院の妹種姫)にあたります。血筋は問題ないのですが、斉彬は篤姫に候補を絞っていたため、この話はなくなったようです。


最近鹿児島では、斉彬と篤姫の対面時の食事のメニューが再現されました。
再現メニューは17品で、当時のものとほぼ同じだそうです。鹿児島湾のタイの刺し身黒豚筍干(しゅんかん)煮高菜おにぎり。鹿児島のお菓子かるかんゆべしなどもあったそうです。