篤姫の使命

将軍家から薩摩藩に婚礼の話がきたのは1850年(嘉永3年)篤姫が御台所となったのは1856年(安政3年)6年の月日が流れていました。
この間に世の中はにわかに騒がしくなり、ある問題も浮上してきました。
それは、将軍継嗣問題です。
篤姫の夫である家定には、子供がなく、世継ぎも定まってはいませんでした。
ここで世継ぎをめぐり、対立関係が生まれます。


□一橋派  一橋慶喜水戸藩徳川斉昭の子)                        篤姫の養父・島津斉彬、老中・阿部正弘松平春嶽などが推す。

南紀派  徳川慶福紀州藩主)       
          井伊直弼、家定の母本寿院はじめ大奥が推す。


斉彬が篤姫に託したのは、簡単に言えば世継ぎを慶喜にすることです。
しかし、それは簡単なことではありません。大奥は大の水戸嫌い。当然水戸藩出身の慶喜の評判はすこぶる悪いのです。
さて、篤姫は養父斉彬の期待に答えることができるのでしょうか?