斉彬の養女となる
1852年(嘉永6年)3月1日、篤姫は島津斉彬の養女となりました。
3月10日には名を一子から「篤姫」「篤子」と改めました。
篤姫の誕生です。
篤姫は19歳になっていました。
その年の6月5日には鶴丸城に移り、いよいよ新しい生活がスタートしました。
篤姫が家定の正室になるには、それにふさわしい家柄でなければなりません。しかし、薩摩藩主の娘となってもふさわしい家柄とはいえません。広大院(茂姫)もそうだったように、篤姫も京の近衛家の養女となり家定のもとに嫁ぐことになりますが、それはもう少し先の話となります。
さて、篤姫を養女とした斉彬は、幕府には篤姫を実子として届けを出しています。
「篤姫は、天保6年に斉彬が初めて薩摩に赴いた時の子であり、虚弱だったため実子届けは出してなかったが、藩主になり国許へ帰ってみると、丈夫に育っていたので実子として届けることにした」
表向きにはこのような理由で、書類の上では篤姫は斉彬の実子とされました。しかし、篤姫が養女であることは周知のことであったようです。
この頃、世の中は混乱していました。
ペリーが浦賀に来航したのです。そしてそれから間もなく12代将軍徳川家慶が亡くなりました。
まだ婚礼も正式に決まっていない篤姫は、はたして無事に家定のもとに嫁げるのでしょうか?