篤姫、御台所候補に!!

三代将軍家光の時から、将軍の御台所(正室)は公家の娘というのが慣例になっていました。
篤姫は公家どころか、外様大名の一門家の娘です。いったいなぜ、御台所候補に篤姫の名が浮上してきたのでしょう?

はじめに、家光から家定までの御台所を見てみましょう。

  • 第7代将軍  徳川家継霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王(実際は嫁ぐ前に家継が                 死去)
  • 第11代将軍 徳川家斉島津重豪の娘・近衛経煕の養女・近衛寔             子(広大院)
  • 第13代将軍 徳川家定鷹司政煕の娘・鷹司任子( 天親院)                                  一条忠良の娘・一条秀子(澄心院)

              島津斉彬の養女・近衛忠煕の養女・篤姫(天              璋院)



篤姫以外では、一人だけ例外があります。
第11代将軍 徳川家斉正室・広大院です。彼女も島津家から近衛家の養女となり、御台所となりました。この広大院の存在が篤姫の人生に影響を与えるのです。

篤姫の夫となる家定は、篤姫と結婚する前にすでに二人と結婚しています。二人とも公家の娘で、嫁ぐとすぐに亡くなってしまいました。
これに懲りた家定が、公家との結婚は望まず、広大院の先例がめでたいのでそれを望んでいるというのです。本当に家定が言ったのかは不明ですが徳川家のほうから島津家に、年頃の娘はいないか問い合わせてきたため、この婚礼話が始まったのです。

この婚礼話は、島津斉彬が、将軍継嗣問題を有利に働かせるため強引に進めたと言われてきましたが、どうもそうではないらしいのです。彼はこの頃まだ藩主にもなっておらず、将軍継嗣問題もまだ深刻化していませんでした。斉彬の関心はむしろ、自分がいつ藩主になれるのかということだったのではないでしょうか?
篤姫と家定の結婚は紆余曲折をえて、もう少し先の話になりますが、その間に将軍継嗣問題も深刻化していくのです。結局は篤姫一橋慶喜を次期将軍に推すという使命を与えられることとなるのですが・・