江戸にて
篤姫の江戸での新しい生活は、芝の薩摩藩邸から始まりました。
ここには篤姫の養母であり斉彬の正室英姫、斉彬の世子虎寿丸、斉興の娘勝姫、そして篤姫が芝藩邸に入ってすぐに生まれた、斉彬の娘寧姫がいました。
ここで嫁ぐ日が来るのを待つ事になりますが、篤姫にはなかなか良い知らせが届かないのです。
篤姫が江戸に到着するのと同じ頃、13代将軍として篤姫の夫となるはずの徳川家定が将軍宣下。翌年の1854年(嘉永7年)正月にペリーが浦賀に再来航。
幕府は対応に追われ、縁組の件まで手が回らなかったのでしょう。
島津斉彬も篤姫に遅れて江戸に赴きました。縁組が進まないことを苦々しく思っていたでしょう。
1854年(嘉永7年)2月27日、篤姫の実の父、島津忠剛が亡くなります。49歳でした。
篤姫はどれだけ心を痛めたでしょう。薩摩にも帰れず、父の葬儀に出ることもできない。篤姫はただ父の冥福を祈るしかなかったのです。
この時篤姫は20歳、江戸に来てまだ4ヶ月の時の出来事です。
江戸へ
1853年(嘉永6年)8月22日、篤姫は江戸に向けて出発しました。
この頃世の中は騒がしく、篤姫の旅路も決して安心できるものではありませんでした。
斉彬は、東海道よりは木曽路のほうが安全だろうと考え、当初は木曽路を通る予定でした。が、直前に東海道に変更されました。
9月24日、大阪に到着。住吉天満宮を参拝。
9月28日、大阪を出発。
9月29日、伏見に到着。
10月2日、近衛家に参内。(後に篤姫が養女となる。)
10月4日、京都見学。(東福寺など)
10月5日、宇治見学。
10月6日、伏見を出発。
10月15日、大井川を渡る。
10月22日、鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝。
10月23日、江戸に到着。
こうして、篤姫の長い旅は無事に終わりました。
篤姫は江戸に到着すると、芝の薩摩藩邸に入っています。現在の東京戸港区三田駅近くです。
篤姫の心中はいかなるものだったのでしょうか?不安と心細さ、そして新しい世界への希望もあったでしょう。
しかし、江戸に到着してからも、婚礼話はなかなか進展しないのです。
もしもの時
徳川家との縁組の話は、ゆっくりと少しずつ進み、斉彬としては、ほぼ大丈夫ではないかと手応えを感じ始めていました。
しかし、ペリー来航や将軍の死により、幕府も世の中も混乱していました。
篤姫の結婚は正式に決定したものではありません。どちらに転ぶか、まだはっきりしてはいないのです。
斉彬は、もしこの結婚が破談になったら、どうするつもりだったのでしょう?
もしもの時の事も、斉彬はしっかりと考えていました。
薩摩藩の支藩、佐土原島津家(現在の宮崎県)の島津忠寛が正室と離縁したため、その妻にと考えていました。
もし本当に忠寛の妻になっていたら、篤姫の人生はまったく違うものだったでしょう。どちらが良かったのか、幸せだったのか・・どちらにしても、徳川家にとっては篤姫のような女性を御台所に迎えたことは、幸運な事だったのではないでしょうか。
斉彬は、この縁組を成立させるべく、最後の手段に出ます。
いよいよ篤姫を江戸へ出立させるのです。
篤姫と斉彬
薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤姫。
斉彬にとっては叔父の島津忠剛の娘であり、本来ならば篤姫はいとこにあたります。
斉彬は篤姫をいったいどのように見ていたのか、気になるところです。
そして、それを斉彬に聞いた人物がいました。
松平慶永(のちの春嶽)です。彼は斉彬を大変尊敬し、親しくしていた人物です。
「閑窓秉筆」にはこのように記されています。
>>余斉彬卿ニ聞くニ、貴娘(篤姫)の御心さしハいかがといへり。卿の答へにハ、中々我々の如きものの及ふ所ニあらず、忍耐力ありて、幼年よりいまだ怒の色を見たる事もなく、不平の様子もなし。腹中ハ大きなるものと見ゆ。軽々しい事はなく、温和ニ見へて、人に応接するも誠に上手也。将軍御台所ニハ適当なり。<<
やはり篤姫は肝のすわった凛とした女性だったのでしょう。一方、人への接し方もしっかりと心得ていたようです。なるほど、このような女性ならば、名君として誉れ高い斉彬の目にとまったのも分かる気がします。
斉彬の養女となる
1852年(嘉永6年)3月1日、篤姫は島津斉彬の養女となりました。
3月10日には名を一子から「篤姫」「篤子」と改めました。
篤姫の誕生です。
篤姫は19歳になっていました。
その年の6月5日には鶴丸城に移り、いよいよ新しい生活がスタートしました。
篤姫が家定の正室になるには、それにふさわしい家柄でなければなりません。しかし、薩摩藩主の娘となってもふさわしい家柄とはいえません。広大院(茂姫)もそうだったように、篤姫も京の近衛家の養女となり家定のもとに嫁ぐことになりますが、それはもう少し先の話となります。
さて、篤姫を養女とした斉彬は、幕府には篤姫を実子として届けを出しています。
「篤姫は、天保6年に斉彬が初めて薩摩に赴いた時の子であり、虚弱だったため実子届けは出してなかったが、藩主になり国許へ帰ってみると、丈夫に育っていたので実子として届けることにした」
表向きにはこのような理由で、書類の上では篤姫は斉彬の実子とされました。しかし、篤姫が養女であることは周知のことであったようです。
この頃、世の中は混乱していました。
ペリーが浦賀に来航したのです。そしてそれから間もなく12代将軍徳川家慶が亡くなりました。
まだ婚礼も正式に決まっていない篤姫は、はたして無事に家定のもとに嫁げるのでしょうか?
斉彬の思案
御台所候補が篤姫に絞られてから、斉彬のもとにある情報が入ってきました。
篤姫が家定の正室ではなく、側室にしようという話が幕府ででているというのです。
斉彬は家臣達や父の斉興に相談しますが、家臣達は側室ならばと縁組に消極的になり、斉興も不満をあらわにしました。
斉彬は参勤交代で江戸に戻ると、様々な人脈を使って冷静に対処していきます。
そして少しずつ縁組の話は良い方向に向かっていきました。
しかし、予想もしないことが起こります。二条家が家定との縁組に立候補してきたというのです。斉彬は篤姫をなるべく早く江戸に連れてきて待機させようと考え始めます。
まもなく将軍家と二条家の縁組は幕府が正式に断り、斉彬も一安心。
やっと縁組の話が進展し始めるのです。
御台所候補たち(2)
1850年(嘉永3年)秋に家定の後室探しを始めた時、島津斉彬はまだ薩摩藩主ではありませんでした。
しかし、それから間もなくの1851年(嘉永4年)2月2日、斉彬はようやく薩摩藩主に就任することができたのです。
1851年(嘉永4年)12月15日、この日薩摩の鶴丸城大奥では、斉彬の家督相続の祝いの行事が催されました。ここには一門家の当主をはじめその家族らが集まりました。
篤姫はもちろん、島津久光の娘於哲、南部信順の娘於朝の3人の御台所候補も集まりました。しかし、於朝はすでに垂水島津家と婚姻を結んでおり、候補からは外れていました。
この時篤姫は14歳、於哲は13歳です。
この日は一族の者達で能を鑑賞、食事も出されたそうです。
斉彬と対面後の翌年から、御台所候補は篤姫に絞られていくことになるのですが、斉彬のいない江戸ではもう一人の候補があがっていました。
美濃大垣藩主の戸田氏正の娘です。彼女は広大院の姪(母が広大院の妹種姫)にあたります。血筋は問題ないのですが、斉彬は篤姫に候補を絞っていたため、この話はなくなったようです。
最近鹿児島では、斉彬と篤姫の対面時の食事のメニューが再現されました。
再現メニューは17品で、当時のものとほぼ同じだそうです。鹿児島湾のタイの刺し身や黒豚筍干(しゅんかん)煮、高菜おにぎり。鹿児島のお菓子かるかん、ゆべしなどもあったそうです。