御台所候補たち

嘉永3年秋、徳川家からこんな問い合わせがありました。
島津斉彬に年頃の娘はいないかと言うのです。
徳川家は次期将軍の御台所として、広大院の血筋を望んだのです。
しかし、この時斉彬には年頃の娘がいませんでした。
これは良い話だということで、斉彬は広大院の血筋の娘探しを始めるのです。


もちろん、篤姫もその血筋にあたります。
しかし、真っ先に篤姫の名があがったわけではありません。


御台所候補として名前があがったのは、全部で5人いました。


新庄藩主戸沢正令の娘「鑑」
八戸藩南部信順の娘「於朝」
・美濃大垣藩主戸田氏正の娘
島津久光の娘「於哲」
島津忠剛の娘「於一」(篤姫


まず2人が候補に上がりました。
於朝です。


は、母が広大院の妹の貢子で、天保9年生まれ。広大院の姪にあたります。
一番の有力候補だったらしいのですが、なぜか候補からは外れ、出羽亀田藩主となる岩城隆永と結婚しています。


於朝は、父が広大院の弟で八戸藩主となった南部信順です。
天保10年生まれで、彼女も広大院の姪ですが、垂水島津家との婚礼話が進んでいたため候補から外れました。


次に候補として斉彬が考えたのは、弟の島津久光の娘於哲でした。彼女は広大院の甥の孫ということになり、少々遠い血筋になります。


しかし、斉彬がこの事を家臣達に相談したところ、於哲よりも忠剛の娘の方が良いのではないかという意見が出たのです。
その娘こそ於一。後の篤姫です。


こうして、斉彬の考える候補者の中にやっと於一が登場します。
家臣の推薦から名があがった於一(篤姫
斉彬も少なからず於一に興味を抱いたに違いありません。

茂姫の話  

「もし女子の場合は一橋家に縁付けさせよ」
重豪の側室が身ごもったのです。生まれてくる子を見る前に竹姫は亡くなり、これが遺言となりました。

1773年(安永2年)6月17日、重豪に女の子が生まれました。名は於篤
1776年(安永5年)7月19日、於篤は4歳で一橋家の世子で、於篤と同じ安永2年生まれの豊千代と婚約。名を於篤から茂姫に改めました。

ところが、誰もが思いもよらないことがおきました。1781年(天明元年に10代将軍徳川家治の嫡子で次期将軍となるはずだった家基が、18歳で亡くなってしまったのです。
思いもかけず豊千代は家治の養嗣子となりました。その後元服し、家斉と改めます。
島津家や徳川家は困惑します。将軍の御台所は、3代家光以降天皇家・宮家・五摂家の姫と決まっています。まして大名家出身の御台所など先例がありません。当然反対の声が上がりました。

しかしここで、「この婚礼は浄岸院様(竹姫)の御遺言である」という事実が豊千代と茂姫の結婚を後押ししたのです。

茂姫は薩摩藩邸を出て一橋家に引き取られ、天明元年の9月22日には江戸城西の丸に入っています。

1787年(天明7年)に家斉は15歳で将軍職を継ぎ、11代将軍となりました。同じ年、茂姫は近衛家の養女となり名を寔子(ただこ)と改めます。
そして、1788年(天明8年)4月18日に結納、1789年(寛政元年)2月4日に婚礼を行いました。茂姫は17歳になっていました。
こうして初の大名家出身の御台所が誕生し、島津重豪は将軍の舅となったのです。

1796年(寛政8年)3月19日茂姫24歳の時、待望の男子が誕生します。名は敦之助。御台所が男子を授かるのは、2代将軍御台所お江与の方以来の事です。しかし、この時には側室の生んだ子が世子と決定していたので、敦之助は清水徳川家へ養子となり、3歳で当主となりました。悲しいことに、その翌年幼くして亡くなっています。

その後は子に恵まれなかったものの、家斉と側室との間の子を養育していたそうです。

1837年(天保8年)、夫の家斉が隠退して大御所となり西の丸に移ると、茂姫も西の丸に移ります。
1841年(天保12年)、家斉が死去し、茂姫は落飾して広大院と称します。

1844年(弘化元年)11月10日、広大院は72歳の生涯を終えました。芝の増上寺に埋葬されています。

彼女の存在は後に篤姫薩摩藩に大きな影響を与えることとなるのです。

余談ですが、生前の茂姫は大変な美女であったと伝えられています。増上寺では茂姫の墓の発掘が行われており、身長が143.8cmだったということが分かっています。

竹姫の話(3)

薩摩藩島津継豊正室となった竹姫。この結婚で徳川家と島津家の関係は強いものになりました。
側室の子益之助を養子とし、結婚4年目には実子菊姫を授かります。もう不幸な姫様などではありません。


1746年(延享2年)11月7日、薩摩では後に25代島津家当主となる島津重豪が生まれます。篤姫の実父忠剛の祖父にあたる人で、忠剛を江戸に呼び寄せたりしています。また、篤姫の養父斉彬も重豪に大変かわいがられていたそうです。
彼は幼い頃に父と母を亡くし、11歳の時薩摩藩主となりました。後見は継豊と竹姫です。竹姫は何かとこの重豪の世話をやくことになります。

竹姫は1757年(宝暦7年)に夫継豊が亡くなり、浄岸院と称するようになっていました。

重豪は18歳の時将軍の姪・保姫(一橋家宗尹の娘)と結婚。この結婚は竹姫が中心となり進めました。その保姫が亡くなると、竹姫は側室選びを始めます。そして自身の生家の縁者、甘露寺規長の娘・綾姫を重豪の側室にしました。

1772年(安永元年)12月5日、竹姫は亡くなります。
薩摩藩に嫁いだものの、生涯江戸を出ることがなかった竹姫。その埋葬の場は薩摩の島津家の菩提寺です。亡くなってから初めて、薩摩を訪れることになるのです。

将軍家と島津家の関係をより強く結び付けていった竹姫。
しかしまだもう少し、竹姫は活躍することになります。

竹姫の話(2)

将軍の養女竹姫薩摩藩主・島津継豊の婚礼話が浮上し、薩摩藩は困り果てていました。
さて、断るのに良い言い訳はないものか・・そもそも断れるのか・・

ここで、一人の女性が薩摩藩の背中をポンと押します。
天英院です。
彼女はこの婚礼話を受け入れるよう、薩摩藩の説得を始めるのです。

近衛基煕の娘で、名を煕子と言いました。6代将軍徳川家宣の御台所だった人です。
そもそもなぜ彼女は竹姫の後押しをしたのでしょう?
天英院は自分の子を早くに亡くした事もあり、幼い頃から竹姫をかわいがっていました。そして何といっても、島津家と彼女は親戚の間柄だったのです。

継豊の父吉貴の妹亀姫満君は、天英院の甥近衛家久に嫁いでいました。
近衛家と島津家との関係は深く、斉彬の姉(養女)が近衛家に嫁いだり、将軍御台所となる広大院篤姫も、近衛家の養女として嫁いでいます。

天英院は島津家の「奥」から説得を試みます。
「ご器量にとりわけ優れているとは申せませんが、幼い頃から利発な姫で父上様にも親孝行な姫でございます」
彼女はなんとか島津家の首を縦に振らせようとしました。

その結果、継豊の父島津吉貴の心は決まり、継豊も承諾しました。
島津家側は竹姫に男子が生まれても、すでに側室に男子がいるため跡継ぎにはしないことなどいくつか条件を出しましたが、それも認められ、晴れて竹姫の輿入れは決まったのです。天英院もさぞ喜んだことでしょう。

結婚が決まると、竹姫の御守殿の建設です。江戸の芝の薩摩藩には広大な土地が下賜されました。
後に篤姫も入ることになります。
そして、山のように集められた輿入れ道具。
1729年(享保14年)12月11日、竹姫の婚儀は盛大に行われました。

竹姫は遠く薩摩に嫁ぐわけではありません。江戸城を出て芝の薩摩藩邸に入ることになるのです。
さあ、竹姫は薩摩藩に嫁ぎどのような人生を送るのでしょう?

竹姫の話(1)

篤姫より以前に、島津家から将軍家に嫁いでいった広大院
彼女が将軍の御台所となるにあたり、当然反対の声があがりました。しかし、これを退けたのが「浄岸院様の遺言」でした。そこまでの力を持つ浄岸院とは、いったいどんな女性だったのでしょう?

時は5代将軍綱吉の時代までさかのぼります。
浄岸院こと竹姫は、京の堂上家清閑寺大納言煕定の娘として、1705年(宝永2年)に生まれました。
父の妹が、将軍綱吉の寵妻となり、その縁で綱吉の養女となります。

しかし、彼女は「不幸な姫様」と呼ばれるのです。
それは、彼女の婚約者が立て続けに2人も亡くなってしまったからです。
4歳の時、会津若松藩主・松平肥後守正容の嫡子・正邦と婚約後、正邦が死去。
その後養父綱吉までもが亡くなってしまいます。
次期将軍家宣は、竹姫が6歳の時に有栖川宮正仁親王と縁組をします。しかし、将軍家宣7代将軍家継が立て続けに亡くなり、輿入れの日が定まらずにいました。すると、今度は婚約者正仁親王が亡くなってしまうのです。竹姫12歳の時のことです。

8代将軍吉宗の頃、やっと縁組の話が持ち上がります。竹姫は25歳になっていました。
吉宗は、22代薩摩藩主・島津継豊の後室として、竹姫はどうかとの話を薩摩藩に持ちかけました。
驚いたのは薩摩藩です。
将軍家との婚姻は莫大な負担がかかります。しかも、側室との間には子もあり、将軍家との婚姻により混乱が生じるかもしれません。
もちろん断りたかったのですが、いい理由が見つからず、時間だけを懸命に稼ぎ試行錯誤していました。

そしてここに一人の女性が登場します。
竹姫にとっては救いの神となるのです。

篤姫、御台所候補に!!

三代将軍家光の時から、将軍の御台所(正室)は公家の娘というのが慣例になっていました。
篤姫は公家どころか、外様大名の一門家の娘です。いったいなぜ、御台所候補に篤姫の名が浮上してきたのでしょう?

はじめに、家光から家定までの御台所を見てみましょう。

  • 第7代将軍  徳川家継霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王(実際は嫁ぐ前に家継が                 死去)
  • 第11代将軍 徳川家斉島津重豪の娘・近衛経煕の養女・近衛寔             子(広大院)
  • 第13代将軍 徳川家定鷹司政煕の娘・鷹司任子( 天親院)                                  一条忠良の娘・一条秀子(澄心院)

              島津斉彬の養女・近衛忠煕の養女・篤姫(天              璋院)



篤姫以外では、一人だけ例外があります。
第11代将軍 徳川家斉正室・広大院です。彼女も島津家から近衛家の養女となり、御台所となりました。この広大院の存在が篤姫の人生に影響を与えるのです。

篤姫の夫となる家定は、篤姫と結婚する前にすでに二人と結婚しています。二人とも公家の娘で、嫁ぐとすぐに亡くなってしまいました。
これに懲りた家定が、公家との結婚は望まず、広大院の先例がめでたいのでそれを望んでいるというのです。本当に家定が言ったのかは不明ですが徳川家のほうから島津家に、年頃の娘はいないか問い合わせてきたため、この婚礼話が始まったのです。

この婚礼話は、島津斉彬が、将軍継嗣問題を有利に働かせるため強引に進めたと言われてきましたが、どうもそうではないらしいのです。彼はこの頃まだ藩主にもなっておらず、将軍継嗣問題もまだ深刻化していませんでした。斉彬の関心はむしろ、自分がいつ藩主になれるのかということだったのではないでしょうか?
篤姫と家定の結婚は紆余曲折をえて、もう少し先の話になりますが、その間に将軍継嗣問題も深刻化していくのです。結局は篤姫一橋慶喜を次期将軍に推すという使命を与えられることとなるのですが・・

篤姫の家族

篤姫の故郷薩摩藩には、一門家として「越前(重富)」「加治木」「垂水」

「和泉(今和泉)」の4家がありました。

篤姫はその中の今和泉家の長女として生まれました。


島津忠剛薩摩藩26代藩主斉宣の7男。鹿児島城下で生まれ、9歳から20歳ま               で江戸の高輪邸で暮らす。その後今泉家へ養子に入り、幸と結婚。天保1               0年に今和泉家10代当主となる。)
島津助之丞久丙の娘)


兄弟姉妹は、

  • 忠冬(文政10年生まれ 今泉家11代当主
  • 久敬(文政12年生まれ)
  • 忠敬天保3年生まれ 今泉家12代当主
  • 篤姫天保6年生まれ 第13代将軍 御台所
  • 於熊天保9年生まれ)
  • 於龍天保11年生まれ)
  • 於才天保12年生まれ)