篤姫の年表
篤姫の生涯を、歴史的出来事と照らし合わせて見てみましょう。
1835年(天保6年) 一子誕生
12月19日 薩摩藩今和泉家の長女として誕生。一子と名づけられる
1839年(天保10年) 一子5歳
12月14日 実父島津忠剛島津今和泉家の当主となる
1841年(天保12年) 一子7歳
天保の改革始まる
家定、鷹司任子と結婚
1843年(天保14年) 一子9歳
阿部正弘老中に就任
広大院(島津重豪の娘茂姫・11代将軍の御台所)死去
1848年(嘉永元年) 一子14歳
鷹司任子死去
1849年(嘉永2年) 一子15歳
家定、一条忠良の娘寿明姫と結婚
1850年(嘉永3年) 一子16歳
寿明姫死去
徳川家から島津家へ年頃の娘がいないか問い合わせ
1851年(嘉永4年) 一子17歳
2月2日 島津斉彬、薩摩藩主となる
12月15日 一子、鶴丸城にて斉彬と対面
1852年(嘉永6年) 篤姫19歳
3月1日 一子、斉彬の養女となる
3月10日 名を一子から「篤姫」「篤子」と改める
6月5日 篤姫、鶴丸城に移る
6月 ペリーが浦賀に来航
6月22日 第12代将軍徳川家慶が死去
8月22日 篤姫、江戸へ出立
10月2日 篤姫、京の近衛家を訪問
10月23日 篤姫、江戸へ到着 芝の薩摩藩邸へ
10月 徳川家定、第13代将軍宣下
1854年(安政元年) 篤姫20歳
2月27日 実父島津忠剛死去
ペリー浦賀へ再来航
日米和親条約調印
1855年(安政2年) 篤姫21歳
10月 江戸の大地震
篤姫、地震により芝から渋谷の藩邸へ移る
1856年(安政3年) 篤姫22歳
7月7日 篤姫、近衛忠煕の養女となる。名を「敬子」君号を「篤君」とする
11月11日 篤姫、江戸城に入城
12月11日 篤姫、結納
12月18日 徳川家定と結婚 御台所となる
1858年(安政5年) 敬子24歳
6月 日米修好通商条約調印
7月6日 徳川家定死去
7月16日 島津斉彬死去
9月 敬子、落飾し「天璋院」の号を得る
9月 安政の大獄開始
10月 徳川家茂、第14代将軍宣下
1859年(安政6年) 天璋院25歳
横浜・長崎・函館で貿易開始
10月17日 天璋院、江戸城本丸火災で吹上へ避難、後に西の丸へ移る
1860年(万延元年) 天璋院26歳
3月3日 桜田門外の変
1862年(文久2年) 天璋院28歳
2月11日 和宮と家茂の婚儀
4月23日 寺田屋事件
8月1日 生麦事件
1863年(文久3年) 天璋院29歳
将軍家茂、上洛の途につく
7月 薩英戦争
11月15日 天璋院、江戸城本丸・二の丸の火災で清水邸に移る
1864年(元治元年) 天璋院30歳
6月 池田屋事件
7月19日 禁門の変
8月 第一次長州征伐
1865年(慶応元年) 天璋院31歳
4月29日 天璋院、清水邸から二の丸へ移る
5月 家茂、大阪城入城
1866年(慶応2年) 天璋院32歳
1月21日 薩長連合成立
6月 第二次長州征伐
7月20日 将軍家茂、死去
12月5日 徳川慶喜、第15代将軍宣下
12月25日 孝明天皇崩御
1867年(慶応3年) 天璋院33歳
10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古の大号令
1868年(慶応4年) 天璋院34歳
1月3日 鳥羽伏見の戦い
1月6日 慶喜、大阪を脱出
1月7日 慶喜追討令
3月 天璋院、官軍隊長へ嘆願書をおくる
4月10日 天璋院、一橋屋敷に移る
4月11日 江戸城、無血開城
7月17日 江戸を東京に改名
田安亀之助(徳川家達)が徳川家を相続。駿府移封となる
9月22日(明治元年) 会津藩降伏
1869年(明治2年) 天璋院35歳
5月18日 五稜郭陥落
6月17日 版籍奉還
1877年(明治10年) 天璋院43歳
2月 西南戦争
6月11日 徳川家達、英国に留学
9月2日 静寛院宮(和宮)、死去
9月24日 西郷隆盛、死去
10月 天璋院、千駄ヶ谷の徳川邸に移る
1880年(明治13年) 天璋院46歳
9月23日から10月31日 熱海・箱根の旅
1882年(明治15年) 天璋院48歳
徳川家達・泰子(天璋院の養父・近衛忠煕の孫)が結婚
篤姫の生涯
薩摩藩の分家の姫から第十三代将軍徳川家定の御台所となった天璋院篤姫。幕末の動乱の中、徳川家の女として誇り高く生き抜きました。
簡単に彼女の生涯を紹介します。
天保6年(1835年)12月19日、薩摩藩の分家である今和泉島津家・島津忠剛の長女として誕生しました。名は於一。
分家の娘にすぎなかった於一は、第13代将軍の御台所(将軍の正室)候補として抜擢されます。
19歳になると、薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、名を篤姫・篤子と改名します。そして今和泉島津家本邸から鶴丸城へと移り、数ヵ月後には江戸に向けて出立するのです。
江戸へ到着してからは、婚儀が正式に決定するまで、しばし待つこととなります。
22歳のとき、ようやく将軍家との縁組が決定します。今度は近衛忠煕の養女となり、名を篤君・敬子と改めました。
安政3年(1856年)12月11日に結納、12月18日に第13代将軍徳川家定との婚儀が行われました。
御台所となってからは、将軍継嗣問題に奮闘することとなります。
24歳のとき、夫である徳川家定が亡くなり、短い結婚生活は終わりを告げます。そればかりか、頼りにしていた養父斉彬までもが亡くなってしまうのです。
天璋院となってから、篤姫は第14代将軍徳川家茂の養母となり、まだ若い将軍を支えていくことになります。
28歳のとき、孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の婚儀が行われました。和宮の降嫁により、大奥の中では江戸と京、武家と公家の違いから確執が生じてきます。
しかし激動の幕末、篤姫と和宮の二人は互いに手を取り合う事になるのです。
32歳のとき、将軍家茂が若くして亡くなり、第15代将軍は徳川慶喜となりました。慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敗れると江戸に逃げ帰り、賊軍として追われる身となりましした。篤姫は敵方の薩摩の出身であり、和宮は天皇の妹・・。二人は微妙な心境だったでしょう。しかし、慶喜はこの二人に取り成しを請うのです。
篤姫は江戸に進軍してくる故郷の薩摩藩に、徳川家への寛容な処置を嘆願しています。幸いにも江戸城総攻撃は中止となり、無血開城されます。そして徳川家にも寛大な処置が下されました。
主である将軍はすでに不在の江戸城にて、篤姫は大奥を取り仕切り、官軍に城が引き渡される前日、江戸城敷地内にある一橋邸に移ります。明治元年(1868年)4月10日のことでした。
その後の篤姫は、徳川家を相続した幼い家達の養育や、かつて大奥で仕えていたもの達の世話を焼きながら、質素ながらも彼女なりに楽しみながら暮らしていたように思います。
明治16年(1883年)11月20日、篤姫は49歳でその生涯を閉じました。