本寿院
本寿院は第12代将軍徳川家慶の側室であり、第13代将軍徳川家定の母です。
江戸城御所院番頭諏訪備前守に仕えた武士の娘で、大奥奉公に上がったおり御手付中臈となりました。
名はお美津の方です。
おとなしい気質であったという彼女は、家慶の死後は本寿院と称します。
家慶には多くの側室と子があったにもかかわらず、成人に達っしたのは家定だけであったため、本寿院は将軍の生母となりました。
篤姫とは将軍継嗣問題での対立はあったものの、江戸城を出た後は一緒に住まい、良い関係だったのではないかと思います。
なぜなら、篤姫が生涯にたった一度の旅行に行ったおり、彼女が篤姫に書いた手紙には、あなたがいなくて心細いとか良いナスができたので漬物にして食べさせてあげたいなど、本寿院の優しい心遣いが感じられる手紙を書いているからです。
二人がどんな関係だったかは今となっては分かりませんが、江戸城を出た後は、助け合いながら慎ましやかに暮らしていたのではないでしょうか?
将軍継嗣問題
篤姫が養父島津斉彬からよくよく言い聞かされたこと。
それは、次期将軍を一橋慶喜にすることでした。
しかし、それは簡単なことではありませんでした。
●大奥での水戸藩の評判はすこぶる悪かった。水戸の徳川斉昭の息子である慶喜は当然嫌われていた。
●大奥ではもう一人の候補紀州の慶福を推していた。
●家定の母本寿院は、家定が50歳になるまで後継者選びは不要と言っていた。
篤姫には大奥の中においては味方もいません。
紀州の慶福に固まっている大奥の中で篤姫は苦心したでしょう。
思い余った篤姫は、思い切って家定の母である本寿院に相談しました。
しかし、当然それを受け入れてくれるはずもなく、反対に怒られてしまったようです。
養父・島津斉彬は安政4年12月25日に幕府に建白書を提出します。
その中で、斉彬は初めて将軍継嗣に慶喜を擁立することを公言しました。
薩摩藩の中でも、西郷隆盛は江戸薩摩藩邸の小の島、大奥の幾島を通じ大奥工作をはかりますが、なかなかうまく進みません。
篤姫のもう一人の養父・近衛忠煕へも協力を求めています。
しかし、様々な苦労も紀伊派であった井伊直弼の大老就任で、一橋派の情勢は一気に不利になります。
そして、次期将軍は紀州の慶福に決定するのです。
篤姫をはじめ、一橋派は敗北しました。
徳川家定
篤姫の夫であり、13代将軍でもあった徳川家定とはどのような人物だったのでしょうか?
1824年(文政7年)4月8日、12代将軍家慶の4男として生まれました。
母は側室のお美津、後の本寿院です。
たくさんいた兄弟は早くに亡くなり、結局家定が将軍職を継ぐこととなりました。
しかし、この家定も幼少から病弱でした。
脳性麻痺だったとか、痘痕があったとか、言葉が不自由だったとか、首を振る癖があったとか、とにかく暗愚の将軍だったと言われています。
料理が趣味だったらしく、カステラなどのお菓子、煮豆や芋をふかしたりし、時には家臣達に振舞う事もあったそうです。
父である家慶の病床には、自ら作ったお粥を持っていきました。
家定は、篤姫との結婚の前に鷹司政煕の娘・任子や一条忠良の娘・秀子と結婚し先立たれており、篤姫は3人目の正室でした。
しかし、いずれも子供ができることはありませんでした。
側室はお志賀ただ一人です。
将軍の後継者問題や、外国との関係で騒がしくなる世の中を家定はどのように思っていたのでしょうか?
自らの跡継ぎを紀州の慶福に決定して間もなく、1858年(安政5年)7月6日に家定はこの世を去りました。
家定の評価は色々あります。
「徳川実紀」より「性質は温容なれど日常の挙措も尋常ではなく、癇も強かった」
松平慶永 「凡庸の中でも最も下等」
朝比奈昌広 「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前や薩摩らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」
篤姫の使命
将軍家から薩摩藩に婚礼の話がきたのは1850年(嘉永3年)、篤姫が御台所となったのは1856年(安政3年)。6年の月日が流れていました。
この間に世の中はにわかに騒がしくなり、ある問題も浮上してきました。
それは、将軍継嗣問題です。
篤姫の夫である家定には、子供がなく、世継ぎも定まってはいませんでした。
ここで世継ぎをめぐり、対立関係が生まれます。
□一橋派 一橋慶喜(水戸藩・徳川斉昭の子) 篤姫の養父・島津斉彬、老中・阿部正弘、松平春嶽などが推す。
■南紀派 徳川慶福(紀州藩主)
井伊直弼、家定の母本寿院はじめ大奥が推す。
斉彬が篤姫に託したのは、簡単に言えば世継ぎを慶喜にすることです。
しかし、それは簡単なことではありません。大奥は大の水戸嫌い。当然水戸藩出身の慶喜の評判はすこぶる悪いのです。
さて、篤姫は養父斉彬の期待に答えることができるのでしょうか?
御台所誕生!!
安政3年11月11日、晴れ。
前日から江戸城より迎えが来ていました。
たくさんのお客が薩摩藩邸に出向き、見物客も大勢いました。
いよいよ江戸城へ出発の日です。
花嫁道具は膨大な数となりました。
道具類はしっかりとチェックされ、薩摩藩邸の板庫に収納してありました。
6日間、長持ち50〜60個を毎日運んだと記録にあります。
篤姫の花嫁行列は、先頭が江戸城に到着しても、末尾はまだ渋谷藩邸を出ていなかったそうです。
まさに豪華絢爛でした。
江戸へやってきたのは19歳の時、そして今は22歳。
ようやく御台所となるために江戸城へ向かうのです。
33歳の13代将軍徳川家定と22歳の篤姫は、
12月11日に結納
12月18日に婚礼
を執り行いました。
晴れて御台所となった篤姫は、この日から「御台様」と呼ばれるようになったのです。